「フードスケープ 私たちは食べものでできている」展から見るローカリティ

アーツ前橋のある群馬県前橋市は、東京から北西に125kmほど離れた地方市にある。今回開催された「フードスケープ 私たちは食べものでできている」展(2016/10/21-2017/1/17)は、日常生活に組み込まれた「食」の風景(ランドスケープ)(フードスケープ)を可視化した。地域の食材を使った発酵食品(南風食堂)や、カフェで食べられるサンドイッチ(ジル・スタッサール)、小沢剛《ベジタブル・ウェポン》の写真、前橋出身の南城一夫の絵画まで、14組の作家の作品と、前橋市が所持する文化財や資料で構成されている。

文化人類学者のアルジュン・アパデュライは、『さまよえる近代』で新しい近代社会理論として、グローバル化による地球規模の多層的に流動する文化経済と、それに影響を与える主体性と客体性を把握するため「風景(ランドスケープ)」という概念を提唱した。彼は、エスノスケープ、メディアスケープ、テクノスケープ、ファイナンスケープ、イデオスケープという5つの位相が相互に作用し合い、新自由主義的な政治経済を編成していると述べている。つまり、人の移動、メディアの影響、テクノロジーの浸透、資本の移動、イデオロギーによる価値形成などが、個人や集団の想像力に働きかけ、国境を越えたダイナミックな風景(ランドスケープ)を形作っているのである。

フードスケープは、アパデュライによる用語ではないが、「食」を起点に、上述の5つの位相が複雑かつ多層的にもつれて織り成す風景(ランドスケープ)を思考するための造語だと理解できる。食文化、食育、TPP、遺伝子組み換え食品、多国籍農業ビジネス、放射能汚染など、日常生活における食をめぐる社会的なテーマは幅広く、その一つ一つがグローバリゼーションとローカリティの関係性、あるいは科学技術、自然、メディア、医療、産業など多数の領域にまたがる。さらに、食は歴史、伝統、宗教、コミュニティ、アイデンティティといった個人と社会を結びつけるため、想像的に働きかける度合いが高い位相だということもできるだろう。

さて、フードスケープ展では、群馬の地域共同体で育まれた土地と人間の精神性とに結びつき、固有の文化を持つローカリティの価値観を提示する作品が展示された。その中の一つ、「風景と食設計室ホー[i]」の《見えない神さまー粕川の祈りとたべもの》は、道路建設で集落の精神的なシンボルである滝への通行ができなくなったことから、赤城山に宿る八百万の神を想定して「いま、神さまはどこに」と問いかけた。

たとえば、その問いかけは、粕川地区に伝わるお月見のお供え物や、酒粕を川に流すという「粕流し」という風習、年末年始のスケジュールと正月料理といった、食にまつわる文化を紹介したインスタレーションに現れ出る。粕川地区では、正月に向けて12月から始まる日毎の行事がある。アーティストは、さまざまな食材の準備が必要で、いつどんな料理を誰がどのように作り、誰とどういった状況で食べるのか、その行為や物の一つ一つにどのような縁起があるのかといった、こと細かなエピソードや情報を、地元住民にインタビューを取った。展示空間では、行事で使用される道具、エピソードを記載した冊子、そしてアーティストと市民参加者が行事をパフォーマンスで再現した映像作品で提示した。地域共同体で受け継がれる食習慣は、田畑の豊作や、この地域でかつて盛んだった養蚕業、家の発展と家族の健康を祈る人々と共にある文化であり、神事であるという意識が作品を通して伝わってくる。

文化人類学や宗教学では、このような自然物の霊的存在を信仰や、人間や死者に「生霊」あるいは「死霊」の存在を認め、様々な儀式および儀礼を行う信仰を「アニミズム」と呼ぶ[ii]。このような原始的な信仰は、現在でも世界中のさまざまな地域で多様な形で息づいている。《見えない神さま─粕川の祈りとたべもの》は、文化人類学や民俗学的な手つきで、群馬県前橋市粕川地区の共同体に横たわる想像力の根源をアニミズムに認め、自然の内にある人間、あるいは自然を上位に置いた人間の関係性を示したといえるだろう。

そのフードスケープの特徴は、コンビニエンスストアでお弁当を買ったり、スーパーマーケットで食材を買って料理したり、レストランでグルメを楽しむといった嗜好性の高い食事、つまり都市生活者の個別化したフードスケープとは一線を画している。いや、この集落に住む人々も、普段スーパーマーケットで輸入食品を購入することも、レストランで食事もすることもあるだろうから、グローバル化したフードスケープが都市と地方で分断しているとは言えない。したがってむしろ、「風景と食設計室ホー」がいわば食文化と、裏にあるナラティブを再構築することでローカリティを再発見し、アニミズムというイデオロギーを再生産したのである。

《見えない神さま─粕川の祈りとたべもの》(風景と食設計室ホー, 2017, 筆者撮影)

次に、展示空間で参加型作品を制作したマシュー・ムーアに焦点を当てたい。彼は、アメリカのアリゾナ州で4代目の農家として家業を継ぐ一方、農業を取り巻く社会環境(政治、経済、生活)を当事者の視点で芸術と融合し、パブリックアート、レクチャー、コミッションワークなど多岐にわたる表現活動をしてきた[iii]。本展示の作品《ソイル・チェンジ》(2016)では、前橋というローカルな地域に限定して、農業で最も重要な「土」について地元農家にインタビューしている。ムーアは、事前調査で日本の耕作地が国土の12%しかないこと、農業人口の平均年令が世界で最も高齢化が進んでいることを知り、グローバルな観点から日本の農業が抱える課題を理解していた[iv]。しかし、インタビューを通じて、前橋で農業に従事する人々が、土(土地)を「霊的なものに通じ、家族と結びつき、未来への義務をたずさえたもの[v]」ととらえ、精神性が重視された存在だと認識していると知った。このような考えは、アメリカをはじめヨーロッパの農業従事者が、一般的に農耕地を資源とみなし、単一栽培など最大限の利益を生む選択をしている現状とは異なると彼は指摘している[vi]。ムーアは、国際的に広まる利益優先型の志向を持つグローバリゼーションの波に押し寄せられている農業のあり方が浸透していない前橋の現状にオルタナティブな価値を認めつつ、いずれ日本人が日本の農業や土地のあり方を真摯に考えて決断が迫られる時が来るだろうと想定した。

そこで、投票という民主主義的な方法で、鑑賞者に日本の将来的な農業のあり方を下記の選択肢で問い、一時的な統計を取ったのである。

  1. 生産のリスクはあるが、オーガニック/自然農法をもっと増やす (235 coins)
  2. 農地を上手く活用出来る専門家や農家を信用して将来を託す (220 coins)
  3. 水耕栽培をはじめとする新しい技術革新を推し進める (143 coins)
  4. 人間が管理せず、自然のまま土が放置され元の風景を回復する(114 coins)
  5. 食料の輸入を増加させ食料価格の低下を促す (20coins)
  6. 先人とのつながりを感じる、長い歴史の記憶を持つ土地であるべき(280 coins)
  7. 合理化を進める資本主義から土地を守るために私的所有をやめ、公共の所有にすることで多品種を生育可能にする(61coins)
  8. どのように農業を振興するか、土地の利用を市場の淘汰に任せる(28 coins)
  9. そもそも食料生産について悩むことがなくなる未来を実現する科学に投資する(108 coins)
  10. 農家を法的措置や経済支援などで助ける政策を支持する(229 coins)

 

床面に描かれた日本地図の農耕地が分布している箇所に土でできたコインが置かれており、一つ取って、項目の下に備え付けられた木箱に投票する仕組みである。コインは定期的に数えられ、各項目の横に併記される。鑑賞者は、日本の主な農産物と食物の輸入元のデータが記載された世界地図を参考にしながら、将来的に日本の食料確保の責任を担う一市民としてベストな選択肢を想像する。展示期間後期では、「6. 先人とのつながりを感じる、長い歴史の記憶を持つ土地であるべき」が最も多くのコインを集め、作家が抱いていたグローバルな農業の危機感を直接的に反映したというよりも、前橋の農家の認識に近い価値観から導かれる結果となったことも注目に値する。

《ソイル・チェンジ》は、科学社会学者のブルーノ・ラトゥールの「単一の自然と複数の文化」を経験的なケーススタディとして、具体的に描いて見せている[vii]。ラトゥールは、欧米中心主義の近代が、自然を単一的で普遍的なものだとする一方で、民族や人種によって異なる多様な文化を世界に押しつけていると批判した[viii]。つまり、欧米諸国が近代的な価値観である科学の進歩と代議制民主主義を、他者である非欧米圏に啓蒙しつつ、自然と人間の関係性については、依然としてデカルト的な二元論に基づく普遍的な自然観であると指摘し、深刻化する環境問題や、搾取を伴う自由貿易など様々な悲劇を生むと主張しているのである。そして、自然観も複数あるべきだという政治的価値観を「モノの民主主義」と呼び、単一的な解決方法に異を唱えた。ここでムーアが投げかけた危機感を振り返ると、問い正されているのは、いずれの場合も、欧米の近代的な普遍性を信じる人間中心主義にもとづく「単一の自然」であることが分かる。そして、十項目の内容とその投票結果は、参加者の「モノの民主主義」を反映した、複数の自然観を指し示したと解釈することができるのではないか。

《ソイル・チェンジ》(マシュー・ムーア, 2017, 筆者撮影)

本展が提示した「食」の風景(ランドスケープ)のパースペクティブは、グローバル化が浸透し資本主義的なフードシステムや個別化し私事化した食生活を映し出したフードスケープではない。実際、食をめぐる社会環境は、グローバルな国際政治や市場経済と、伝統や歴史を内包するローカリティとが重層的にせめぎ合い混交している状況で、「フードスケープ」展が強調したことは、後者のローカリティにおいて近代的普遍性の極をなすアニミズムや精神性といった非/反近代的な態度である。前橋の地域共同体にとって重要な精神性が自然や食文化に未だに息づいていることが、アーティストの想像力を掻き立て、現代アートの糸で結びつけられた結果、フードスケープ内部の分水嶺が解き明かされたのである。

食べて生きることは、想像力から生まれたものでも学問でもなく、生活に必要な行為そのものである。かつて、山や川など地形と気候の条件に適った野菜や肉を育てて収穫し、その土地ごとに食べることは成立してきたが、土地に深く依存した自然観にもとづく人と自然の文化的な関係性は、いまやいつまで保持されるか分からない。だからこそ、アーティストが「食の風景(フードスケープ)」に多方面からアクセスし、過去・現在・未来をまたぐ人間生活と文化形成のありかたを探求する作品や展示は、近代的な価値体系を自由に疑い、考察し検討を加える上で、重要な手がかりとなるだろう。

 

[i]岡友美・永森志希乃によるユニットで、2012年3月より、富山と東京を拠点に活動している。

[ii]村武精一(1997)『アニミズムの世界』吉川弘文館、11頁。

[iii] https://www.youtube.com/watch?v=Cqe_5C5yQJU

[iv] マシュー・ムーア(2016)「Practice05: マシュー・ムーア」『フードスケープ 私たちは食べものでできている』p.52

[v]同上

[vi]同上

[vii] ブルーノ・ラトゥール(2008)『虚構の「近代」』新評論、266頁。

[viii]前掲書(vii) 264-266頁

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